東京都葛飾区の不妊鍼灸院 青龍堂です。
いよいよ本日オープン致しました!
スタッフ一同、患者様に喜んで満足して頂ける治療院を目指して頑張ります。
亡き義父から私が治療家としての一歩を踏み出した頃に「初心を忘れず、己を知り、曇りのない心で生きてほしい」と残して頂いた書です。
これは中国唐代の末期に活躍された趙州従しん禅師の言葉です。
計り知れない威徳を備えた禅師は百二十歳の天寿を全うされ、生涯を禅の道一筋に生きたと云われます。
その禅風は「趙州の口唇皮禅」と評されるように、日常生活における言葉を自由自在に操って仏法を説き示すものでした。
普段なにげなく使うありきたりの言葉に、とてつもなく深いはたらきが秘められており、修行者たちは体得に血の汗をしぼったのです。
この「大道透長安」についてもそうです。
禅師の語録には次のような話が載っています。
ある僧が趙州禅師に「如何なるか是道」(道とはいかなるものですか)と問うたところ禅師はすかさず
「墻下底」(道なら垣根の外にある)と答えました。
僧が「恁麼の道を問わず、如何なるか是大道」(私はそんな垣根の外にあるような小道ではなく、天下の大道を尋ねているのです)と問い直すと、禅師は「大道透長安」とずばりと言い切ったのです。
ここで禅師が云っている長安とはとりもなおさず悟りの世界・大安心大安心【だいあんじん】の境地の事です。
その僧と同様私達は、そういった世界が自分とは遥かにかけ離れたところにあると思いがちです。
またそこへ辿り着くには、難しい書物を読んだり特別な修行や日常生活とは縁遠い清らかな生活に入らねばならないのではないかという思い込みがあります。
そういった誤った思い込みをきれいさっぱり打ち砕かんと、趙州禅師は親切かつ、ずばりと「大道透長安」と説破されたのです。
剣豪・宮本武蔵がちょうどこのことと同じようなことをいっています。
「剣の道を学ぶということは必ずしも道場の中で木刀を振り回す時だけではない。飯を食っている時も、歩いている時も、寝ている時も、いつでも剣の道を学ぶ入口がある」と。
自分がいつも何気なく歩いている道、毎日ご飯を食べたり、お茶を飲んだりしている、ごくありふれた世界のいたる所に悟りの世界・大安心の境地への道が開けているのです。
そしてこの世の人一人一人にその道は常に開けています。
それぞれに歩む人生は違っても「いま・ここ」自分の目の前にこそ、その世界への入り口があるのだという事を知るべきであるという尊い教えです。
もうすぐお盆ですので義父もわが家に帰って来ます。
本日、開業にあたり私自身、義父の思いに応えられる治療家になりたいと決意を新たにしております。
これからも不妊鍼灸の青龍堂をよろしくお願い致します。